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2005年3月の記事

2005.03.29

弁No.11 大学の師走

弁No.11 これまでは、年度末と言えば、2月下旬になればおおむね期末試験を始めとする各種の入学試験や、論文審査、新規人事の事務的なことも終わって、少しは研究のために時間を割くことができたのですが、ついに、まったく春の自宅研修もない時代になってしまいました。もとより、夏休みも昨年などは事実上、ほぼ皆無でした。2004年4月に独立大学法人になってから、大学の事務、とりわけ庶務掛からの教職員向けの電子メールによる通知は、21時とか23時のタイムスタンプ、そして土日のタイムスタンプのメールもたくさんあって、おそらくは労働基準法違反の猛烈なサービス残業が行われています。教員間の連絡も、今年は、深夜23時や24時は珍しくなく、多くの同僚が午前1時、2時、3時まで起きて仕事をしているのがわかります。土日には多くのメーリングリストでの発言が結構途絶え、個人的メールも届かなくなっていますが、大学業界は別世界で、土日メールは普通のことです。他大学の誰それが倒れた、という話もメーリングリストや風の便りで入ってきます。壮絶な時代環境になりました。文字通り、師走です。かく言う私も、書けなくて最終的にお断りした論文がいくつも出てきて、ここ数年は恥ずかしい限りです。
 研究面での論文稼ぎ時のはずの3月がなくなり、4月中旬過ぎまで民事、少年、国選刑事事件の法廷が入っていて、いろいろな調べ物や打ち合わせ、拘置所や少年鑑別所通いなどで、相当の時間を奪われていきます。今は、すべてが勉強ですし、知らない世界の出来事が多くて、ためになっていますが、これが営業となると、ほとんどが時間の持ち出しの仕事ですから、生活は成り立ちませんね。どう考えても現時点では大幅な赤字の仕事です。 論文を書いたり、講演をしている方が経済的にはずっとよいようです。しかし、法学研究院の教員だけからなるわが法律事務所は、独立採算。せめて事務所の運営経費や事務員さんの給与の一部くらいは私も事務所に持ち帰らなければならないわけで、研究室経費、庶務的事務、水光熱費を自分で稼がなくてよい教員は、ある意味ではラクチンなのかもしれません。わが事務所にあっては、参加している個々の弁護士は今のように無報酬(それどころか持ち出し)でも、本当に事務所自体が維持できるのかどうか、いささか心配な昨今です。

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2005.03.22

昨晩、出身自治体がなくなった・・・

 今日2005年3月22日0時をもって、私の出身自治体名が変わりました。2004年3月31日には、木佐家のルーツがある広島県吉舎(きさ)町が三次市に吸収合併されました。行ったことはないのに、何か寂しさを感じました。今日から、私の出身地となっていた平田市は、2市4町の合併により出雲市となりました。言い慣れた出身地名がなくなるのは、やはり寂しいものです。これからは、「出雲大社は出雲市にある」、といっても間違いではなくなります。木佐家とゆかりのある平田本陣記念館を見たら、さっそく「出雲市立」となっていました。なんとなく、まだ、違和感。この記念館のHPには、「木佐家ものがたり」というページもあります。私の実家は、木佐家の家系図では、ごくごく末端に位置するだけの軽~い存在にすぎません。
 「北大の木佐です」と言いかけて、「九大の木佐です」と自然に出るまで2年近くはかかったから、これからしばらく出身地名がスンナリ出るには一定の時間を要するでしょう。また出身地の説明もあれこれしなければならないでしょう。合併後は、実家から市役所までタクシーで3,000円くらいはかかるのでしょうか。自治の本丸は、遠くになりました。

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2005.03.21

地震見舞いのお礼と現状のご報告

050320_jishin_insei_pc050320jishin5 3月20日の福岡における地震発生後、安否や研究室の状態につき、ご心配をいただきました方々に厚くお礼を申し上げます。携帯電話もつながりませんでしたので、私の元に着信履歴のある方以外にもお電話などをいただいた方があろうかと思います。有り難うございました。

 身体にはまったく問題はなく、自宅では若干のものが落ちただけでした。大学研究室は、3月21日になって院生の方に入って調べて頂きました。院生から送られてきた写真(右側)でおわかりのように、ほんのわずかの辞書、本、六法、資料が落ち、書架と書架の間ではファイル類が落ちた程度だったようです。昨日は、大学に向かえるような交通事情にはなく、大学関係者へのNTT電話も携帯電話もつながらず、昨夕以降になってやっと連絡が取れるようになりました。現在は、落ちた書籍もとりあえず積んでもらいましたので、私の研究室は何事もなかったかのようですが、これは北海道在住時代の数度の大地震に鍛えられて、書架の据え付けなどの際に頑丈な補強を事務室にお願いした結果でしょう。九大着任の際、北海道から持ち込んだコンテナ1個分の本は2ヶ月間研究室に入れることができませんでした。その代わり、というわけではないですが、地震対策を含めた補強をしっかりしていただいていました。院生からの報告では、法学研究院の同僚教員の研究室にあっては、相当ひどい状態のところもあるようです。戦前以来の木製の書架がたくさんありますから、これらは倒れたでしょう。私が、九大の研究室に初めて入ったとき、「帝国大学備品」なる金属製ラベルが釘打ちしてある木製の書架だけで、何の地震対策もしてありませんでした。当初、しっかりとした木製の歴史ある書架を捨てるのが惜しくて、短期間使ったのですが、結局、金属製の書架に代えてもらい今回の被害軽減につながりました。廃棄物を出すことには相当悩んだのですが。
 被害は弱者に及ぶようで、私の指導院生でおそらくもっとも経済的苦しいかもしれない院生のノートパソコンがもう1枚の写真(左側)のように壊れました。積み上げてあった木製書棚が落ちたとかで、書籍も写真でみるとひどく散乱しています。
 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所でも、所長が夕方、室内に入って調べたところ、大きな財産的な被害はなかったようです。わずか1キロメートル以内のところで、10階建のビルの窓が大量に割れたり、大きな道路の亀裂などが散見されますが、幸い、事務所には影響は小さかったようです。テレビ、新聞の報道から判断する限り、相当、ラッキーな状況です。

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2005.03.20

弁No.10 国選弁護事件被告人の老母が、裁判終了後、自宅で作った野菜や漬け物を持ってお礼に来られたら・・・

弁No.10  本物の新人弁護士、すなわち57期として司法修習を終えて、もっぱら仕事として弁護士を始めた方たちは、すでに新人弁護士研修のメニューをこなすことなど、とっくに終わっていることでしょう。残っているとしたら、事件数が少ない「人権救済申立事件調査」くらいではないでしょうか。実は、機会を失って、いまだ、福岡弁護士会で登録した57期の方々とは、お一人を除いてほとんどお話のチャンスを持てないでいます。したがって、どのように研修を終えられたのかは分かりません。

 東京での最初の研修(10月2日)において印象深かったことを2つだけ、書いておきましょう。

 第1は、研修の講師をされる「先輩」弁護士が、すべて、私が司法改革問題を語り始めた16年前(1988年)よりも後で弁護士になった若い方々である、ということです。88年から92年頃、私が東京を始めとして各地を回って司法改革論を話していた頃に登録をされた方々は、早い方にあっては弁護士会長になられ、その頃、いっしょにシンポジウム計画・設営などで連絡を取ったり、親しくご交誼いただいた方たちは、すでに各地で弁護士会長を終えられる年齢なのです。従って、今、新人研修に当たっている方々は、すでに私の名前などご存知ない、まして、『人間の尊厳と司法権』などという本は知らない、という世代なのです。私が日弁連でグループ単位で受けた際の研修講師2名とも、「自分はこの間の司法改革の流れについては詳しくないが」とおっしゃっていました。代わって私が話そうか、とついつい思ってしまいました。まぁ、「司法改革」は、「年とともに去りぬ」というところでしょうか。福岡での研修でも、一番若い講師は、弁護士登録後数年という方でした。講師陣に対して、「日本における司法改革史」の研修も必要かな、などと思ったりもしました。

 第2は、倫理研修の重要性です。私は、人に倫理を語ることのできるような人生を送ってきませんでしたから、ときおり直接に、あるいは人づてに依頼される公務員関係や各種団体での「倫理研修」は、すべて自己不適格と考えて、お断りしてきました。正直言って、倫理研修を管理職でもない、いわんや最高幹部でもない方たちにいかに説いたところで、上層部で反倫理的な行為があるとしたら、部下はモノもいえず、内部告発もできず、つらい目に遭うだけです。最高幹部たちが、襟を正し、「李下に冠を正さず」という姿勢さえ持っておれば、倫理違反の行為など、そう生ずるものではないと思います。したがって、倫理教育は上層部が腐敗している組織社会であるならばどれほど有効であるのか疑問があるのですが、弁護士に対する倫理研修は有益でした。福岡でも2回、この倫理研修を受けましたが、その都度、参考になることが多くありました。

 日弁連での多数の設問の中の一つから。
 〔設問2〕詐欺事件についての被告人の国選弁護人に選任された。次の場合、どのようにするべきか。
 1.被告人の家族から、国選弁護では報酬も安く充分な弁護活動はできないので、私選弁護に切り替えてやってもらいたい旨の申し出を受けた場合。
 2.被害者と示談をするため、被告人の家族とともに被害者宅へ赴いた。その帰り際、被告人の家族から、タクシー代として現金5万円を差し出された場合。
 帰りの切符を差し出された場合はどうか。
 3.被害者宅に赴いたところ、コーヒーとケーキが出され、被害者と交渉する内に話が弾み、被害者から別件の売掛金請求を依頼された。国選事件係属中にその別件の売掛金請求事件を受任してよいか。終了後に受任する場合はどうか。
 4.国選事件は終了した。
 被告人が、フォアグラとフランスワインの詰め合わせを宅配便で送ってきた場合。
 被告人の老母が、自家製の野菜を持って挨拶に来た場合。

 会場で示された解答は、今は書きません。微妙なことから、学ぶことが多々あります。

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2005.03.15

弁No.9 ホームページを開設した理由

弁No.9  私がそもそも自分のホームページを開設した理由は、このホームページのどこにもまだ書いていません。今回の開設の直接の動機はいくつかあります。最近では職場その他からWEB上やペーパーでの書き込みを要求されるアンケート類があまりに多く、自分でも各種の自己関連のデータの整理をせざるを得なくなったこともあります。そのほかにも理由はあります。しかし、最大の契機は、自分の年齢を意識したということでしょう。その説明には、私を1982年の4月に転職した北海道大学に呼んで(拾って)くださった故・遠藤博也先生のことに立ち返らないわけにはいきません。

 遠藤先生は、1977年に刊行された『行政法Ⅱ(各論)』 (青林書院新社)の「はしがき」を次のような文で締め括られました。

 「自分にとってやりたい仕事は山ほどあるのに残された時間は余りにも短い。公務と雑用の合間をぬって本書を書きながら、時折、痛切に休息の時間が欲しかった。しかし、立ち止ると身も心もぼろぼろにこぼれそうなうえ、死後の考えただけでも気の遠くなるような長い休息の時間を想うと、今はただ忙しく走り続ける他はない。」

 この文章は、先生が41歳のときのものです。先生は、末期に北大病院のベッドで、「自分は、人の3倍勉強をしてきた」とおっしゃいました。あの苦しい最期に、ラテン語の勉強をなさっていました。私にはまったく真似のできないことです。しかし、上記の先生の心境と、私の今の心境には、似たところがあります。
 その遠藤先生が亡くなられたのは、1992年4月、満55歳の時でした(1936生~1992年没)。遠藤先生については、まだ書かなければならないことが多々ありますが、今はこれ以上を記す時間がありません。
 昨年2004年は、早くも先生の13回忌の年でした。遠藤先生の享年を今年迎える私は、遠藤先生ご自身が病気を自覚されるに至ったほぼ同じ年月のときに、無意識か意識的かはわかりませんが、ホームページを立ち上げたのです。自分のやってきたことを整理するためが主要な目的です。先生の没後、ちょうど1年後に先生がいらっしゃった研究室に移動しました。その直後、先生からの啓示としか思えないきっかけをもらって、5回の入院・手術も経験しました。今、なんとか生きています。

 13日(日曜)に東京で憲法関係の研究会に出て報告をした後の懇親会で、ロー・スクール関係の教授たちは、口をそろえて、「もう死にそうだ、倒れそうだ、研究時間がない」と言っていました。ロー・スクール発足で教員の負担過重はあまりにもすさまじいものです。反復講義の多い高校の先生方よりはるかに多い講義数の同僚も増えています。数日前に書いた早稲田大の西鳥羽教授も享年53歳。いろいろ考えながら、残りの人生のあり方を模索する意味でも、このホームページを始めた次第です。いつまで続くか問題ですが。

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2005.03.12

弁No.8 少年付添事件も開始

弁No.8 昨日10日(木)の夜、関西行政法研究会の連絡網により早稲田大学の西鳥羽教授(行政法)の訃報を知りました。インターネットのニュースで見ると、単身赴任先のマンションでの逝去とあります。同氏は、私が近畿大学から北海道に移ったあと、事実上も形式上も私の後任として近大に着任されました。私よりずっと若いと思っていましたが、ニュースでは享年53歳でした。合掌。
 同氏は私とわずか1歳違いであり、そのことで、このホームページを開設する動機を思い出しました。これについては、近々、触れることにします。すでに、ある程度、原稿は書いています。
 さて、一昨日の10日(木曜)17時半に、いままで研修科目で残っていた「少年付添事件」、「人権救済申立事件調査」、「民事・刑事を問わない指導弁護士との共同受任事件」の3つのうちの1つ、少年付添事件の要請、正確に表現すると「当番弁護士(少年)出動要請書」が来て、11日は14時間を使いました。そして、今日は、土曜日ですが、裁判所に出かけていきました。少年の身柄が、家庭裁判所に行くのか、地裁に行くのかすら事前には分かっていなかったのですが、実態は地元の警察署(代用監獄)に行くように請求されていました。弁護人選任届、付添人選任届、上申書などをあわただしく作り、時間が過ぎました。何とか、少年鑑別所に行くように、頑張りました。指導弁護士の先生に教わりながら、時間との戦いになっています。今日のことは<紳士協定>に基づき、これ以上書くことはできませんが、法律は全国共通でも、運用なり努力の余地にはずいぶん幅があるものだ、と改めて感じました。いずれの日にか今日のプロセスをオープンにできることを願っています。いくら少年用の配慮がある程度存在するとはいえ、本物の<少年>が、成人の被疑者らが多数いる拘置所や代用監獄で、豊かな経験を持つ大人たちと友達になるようなことがあるとせっかくの更正の機会が奪われるのでは、と考えます。その分かれ目のところで弁護士の立会いがちゃんとできているかどうか・・・

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2005.03.10

弁No.7 研修冒頭のキョーレツなショック

nichibenrenkaikan弁No.7 正式の登録日は、2004年7月27日。その後、9月1日に、弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所のお披露目パーティーがあったのを別にすれば、弁護士業務との関連ではさほど時間を奪われることもなく9月末までは過ぎていきました。
 10月2日、第57期の司法修習を終えた方たちと一緒の研修が始まって激変開始です。この新人研修、1回では終わらないので、「東京弁護士会及び第二東京弁護士会への登録者以外の新入会員」(10月2日)と「東京弁護士会及び第二東京弁護士会に登録する新入会員」(10月3日)に分けて、霞が関の日本弁護士連合会(以下、日弁連と言います)の建物で倫理研修を中心とした研修が終日行われました。午後は20名から30名のクラスに分けてのゼミ型の研修でしたが、30クラスくらい編成されたでしょうか。当日の「新人」名簿を見ると知人の憲法教授や刑訴教授も新規登録されていましたが、顔を合わせたのは一人だけでした。
 この研修初日に言われた大事なことは、実は、その後、福岡県弁護士会の研修でも初っ端に言わました。それは、大学に長く居続けた者にとっては、非常にショックでした。要するに、2度も説かれたことは、「弁護士の仕事は頭脳労働であるから、それに集中しなさい。事務員さんに頼める用件・用事は自分ではするな」という趣旨のことです。大学の教員は、勤務時間の半分以上を、他人がしても済むような単純労務で費やしているのですから、これは本当に衝撃でした。今でも、法律事務所の中で、ついつい事務員さんがしてくださることを自分がやってしまいます。確かに、大学の研究室に戻ると、コピー取りからファクス送信、封筒の宛名書き、糊付け、郵送代の計算、ポスト投函、宅配発送、書類の穴あけ、ファイルのラベル印刷、ラベル貼り、文書の整理、その他もろもろ、全部自分でしなければならないことだらけですから、この落差にはいまもって身体がなじみません。ドイツの大学教授と日本の弁護士の共通性はここにあります。ドイツではタクシー運転手をしている弁護士がたくさんいますし、日本なら書記官がしてくれることをドイツの裁判官は自分で結構していますが、日本の裁判官・弁護士はドイツの教授みたいです。日本の大学研究者はドイツの裁判官と似ていて雑用が多く、逆に、ドイツの法学部教授と日本の裁判官は、市民的自由をあまり行使しない(正確に言えば、ドイツの教授の場合、大多数は保守的な政治活動をしている)し、秘書(的な人)がいてある種の集中ができているという点でも似ているな、と今でも思っています。
 今日は研修冒頭のショックだけで閉じます。福岡弁護士会の研修に関することは、引き続き。

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2005.03.09

弁No.6 新人弁護士の研修

弁No.6 今日は、時間的にきついので、私が現に受けている福岡県弁護士会の2004年度新人弁護士研修プログラムを掲載するだけにとどめます。これを全部、こなさないといけないのです。2004年度10月中旬以降、順次、修了していかなければなりません。3月末までに終えることとなっていますが、まだ、終わっていない項目がいくつかあります。例えば、少年付添事件。PDFファイルは、なんとかアップできたようです。研修の感想などは、また後ほど。

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2005.03.08

弁No.5 登録とロー・スクールとの関係

弁No.5  たまには、日本の話を書かないといけませんね。ドイツの話から、いったん離れて、弁護士登録を考えた事情を、とりあえず簡単に書いておきます。いずれ、書き足さなければ行けないでしょう。
 まず、弁護士登録は、私の場合、いわゆるロー・スクール(法科大学院)設立とはまったく関係ありません。関わりがあるのは、ただただ、「独立大学法人化」、いわゆる「独法化」です。2004年4月1日に国立大学から独立大学法人になりました、と言いたいところですが、正式には国立大学法人になりました。「独立」性はなくなったというでしょうか。この法人化は、国家公務員減らしの一環としての政策によるものですから、法人化によるメリットはほとんどないだろうと予想していました。現に大学予算は減少の一途で、講義やゼミで配布できる資料は、2004年の10月からA4サイズで1枚の表裏2ページ分のみとなりました。教育環境は激変です。図書予算も縮減し、研究費はないに等しい状況です。私の場合、東京へ1泊で2往復するだけの旅費(14万円)が、1年間の研究費と旅費のすべてといっていいでしょう。研究費は自分で講演、原稿、研修などで「稼ぐ」しかありません。「独法化」を利用するとしたら、新しい仕事の形態の模索のみです。それが、私にとっては、理論と実務を結びつけるチャンスとしての弁護士登録でした。従って、弁護士登録が大学本部で認められないかもしれないというリスクを冒した上で、登録手続を始めたわけです。当時は、大学側でも、法学研究院でも正確な方針は決まっていませんでした。

 私は、ロー・スクールの教員ではありません。専任教員でないのはもとより、2005年度後期までは兼任教員でもありません。いわんや実務家教員でもありません。単に、在来の法学部と法学府(大学院)で教育と研究をするのが本業です。従って、ロー・スクールの建物に入ったのはこの1年の間に4回ほどに過ぎません。ロー・スクール内で、図書室がどこにあるかも知らないし、ロー・スクール棟に入るための磁気カードも配布されていないし、シラバスや各種案内などロー・スクール学生に配布されているはずの資料も、何一つ持っていません。ロー・スクール学生が使えるデータベースの利用資格もありませんし、ロー・スクール教員用のメーリングリストにも入っていません。こういう次第で、法科大学院と私の弁護士登録は全く無関係なのです。しかしながら、私が手続を進めているのと同時進行で定まっていった規則では、九大の教員は、弁護士九州リーガル・クリニック法律事務所に所属しなければ弁護士活動ができないことになりました。正確に言えば、手続面での遡及効はないから、私に適用はないはずです。しかし、従順な(?)私は従うことにしました。結果としては、目下のところ、事務所に所属できたことは、大変幸運だったと思っています。

 もっとも、弁護士登録したことで、弁護士会費や新人研修などにともなう支出は大幅増加、研究時間は超減少、講演・研修、執筆活動などの機会も激減。経済生活と生活時間はいっそう悪化。どこでバランスを、何でバランスをとるか、思案のしどころ。登録前後のことも含めて、それらについては、また続きを。

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2005.03.06

弁No.4 独日法律家協会の設立経緯から学んだこと

弁No.4  日本とドイツの法理論と法実務の関係について考えさせられた出来事の第3番目としてあげるべきは、次のような際だった両国の違いです。
 1987年頃、当時、ハンブルク財政裁判所の一裁判官であったグロートヘア氏との交流から始まりました(インターネット上の現在の同裁判所は、当時の裁判所とは異なります。新築されたようです)。同氏は、ドイツの裁判官として日本の最高裁で3ヵ月の研修をした最初の人です。日本の裁判所や裁判官についての感想を聞くために、ミュンヘンから6時間はかかるハンブルクまで出かけていきました。ドイツの財政(税務)裁判所は高裁に相当します。同氏は、その後、裁判長裁判官を経て、現在、同裁判所の長官です。長官になられてから、記録映画『日独裁判官物語』(1999年公開開始)にも出演していただきました。
 同氏は、ドイツ側に事務局がある「独日法律家協会」の事実上の設立者と言ってよいでしょう。設立当初は、事務局長でした。そして、私は、1988年に設立された同協会の日本側会員の事実上の第一号だと思います。設立の年の訪独の際には、ささやかですが、設立のための寄付金をハンブルク駅で同氏に渡して帰国しました。
 日本には、長い伝統をもつ日独法学会がありますが、これにはほぼ大学研究者だけが入っているといってよい状況です。この現実を、ドイツ側は批判的に見ていました。そこで、ドイツ側で、独日の法学会を設立するにあたって、役職者を含めて多数会員を意識的に法律実務家にしようとしました。ここでも、学会ないし学会に相当する組織は、実務と理論が適度に交流し合うものでなければならないという観点が徹底しています。この協会のドイツ側会員は、ドイツだけではなく、スイスやオーストリアなどの法律家も入っているのですが、圧倒的多数は弁護士と裁判官です。研究者はボチボチというところです。日本側の会員も漸次増えてきました。ドイツ語の機関誌は毎年刊行され、現在、17号(2004年刊)まで出ています。創立当初から役職者はハンブルクに集中しています。お世話になった日本人だけでも、もう数え切れないほどになるでしょうが、設立の経緯を知っている人はきわめて少ないと思います。
 グロートヘア氏の自宅に招待されたとき、同氏から言われた言葉が忘れられません。「教授だからといって、ほとんどの人が読めない難しい論文を書いて何の意味がある? 多くの人に読まれてこそ価値があるのではないですか」、と。1990年に刊行した拙著『人間の尊厳と司法権』が学位対象の論文としては比較的読みやすい理由は、グロートヘア氏のようなドイツの裁判官たちのアドバイスがあったからこそなのです。
 説得力をもつ主張をするためには、自らが十分な理解をすることが必要であるのはいうまでもないですが、それを分かりやすく説くこと、これをドイツの実務家たちから学びました。私の考えることが実務を意識していることの遠因の一つは、以上のできごとにもあります。

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2005.03.04

弁No.3 初級職公務員も一人で行政処分・契約や行政争訟の文書作成

弁No.3  法理論(法学説)と実務の関係について、ショックを受けた第2のきっかけは、ドイツの公務員養成制度です。2年間いた当初の留学のときに、ほぼ毎日のようにミュンヘン大学の研究室から300メートル程度のところにある学生・職員用の食堂(メンザ)に通いました。そのちょうど中間のところに、実は、1990年になって初めてその存在に気づくことになるバイエルン州行政学校があります(その後、事務局は移転しています)。これは、本来は16歳から18歳の間に2年間、初級職公務員になるための学校です。すさまじい量の法学を中心とする教科書類、答案練習もの、その他の資料類がありました。改めて1996年に、同学校で販売している一切の教科書類を購入したら段ボール箱2つ分くらいあって、16万円の請求書が来ました。初級職の公務員の人たちに、初歩レベルとはいえ、実務でそのまま役立つ徹底した法律の理論・実務教育をしているのです。日本の場合、いくら大学の法学部で、例えば行政法総論・各論、行政救済法を習ったとしても、実際の現場でその知識を使うことはほとんどありません。理由は簡単で、現実の「行政処分」の書式、仕方を教員が教えることはありません。現場を知らないからです。「処分庁」といっても、日本の実務の現場では「稟議書」に10数個もの起案者から上司までの印鑑が押してあり、役所内部の決裁規定・専決規定による本来の専決権者は、一連のハンコのうちの真ん中辺りにある課長だったりします。つまり、誰が決定権を持っているかを、ほとんどの職員が意識もせずに日常の仕事をしている。ドイツでは、起案から不服審査、行政訴訟まで、一人一人の職員が、しかも初級職の公務員でも徹底して卒業までに、審査請求書、裁決書、判決文を書くところまで訓練されて、やっと仮採用の公務員になっていくのです。日本の公務員法でいう条件付き任用となるのです。2年間の行政(公務員)学校を卒業できない学生も相当数いますし、6ヶ月の仮採用(試用)期間後に解職される公務員も少なくありません。公務員のうち中堅幹部になる人たちが高卒後に通う官吏養成大学校(一例として、バイエルン官吏専門大学校)でも、実務に使える内容を盛り込んだ法律学のテキストが使われています。卒業後は、翌日から、起案、決裁、裁決文書起案、訴状起案などが行えるのです。初級職であれ、上級職(上記の中堅幹部候補生)でもたいていは、一人で不服審査庁や裁判所に出廷します(以上の一部は、拙著『豊かさを生む地方自治』(日本評論社)に書いています)。
 ここで述べたことは、行政実務と法理論の関係です。大学教員は、仮に行政法が専攻であれば、行政現場に相当通じている必要がありますし、それが不服審査の段階、行政訴訟の段階になったときの具体的なあり方について知っておくべきと思います。ただ、ドイツでも、総合大学の正教授はあまりドイツの行政現場を知りません。彼らが公務員の研修にいくことはほとんどありません。日本の大学教員とは大違いで、大学の正教授の「格」の高さについては、また後ほど。

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2005.03.03

弁No.2 裁判実務を経験した大学教授たち

弁No.2 なぜ、「法の実務」にこだわるのか。何回かに分けて書きます。
 まず、第1に、実務と理論の関係について、以下のような経験があったからです。
 最初の留学の際に2年間(1985-1987)いたミュンヘン大学時代に、ドイツを代表する刑法学および法哲学の碩学アルトゥール・カウフマン教授の講座の昼食会にときどき出席させていただきました。これは、毎火曜日に大学近くのイタリア・レストランで行われていましたが、その際に、同教授が、裁判官経験もお持ちと聞いて、その後、ドイツの法学者は実定法専攻者はもとより、基礎法専攻であっても司法試験を受け、司法実務の経験を多少とも持っていることを知り、そのときはそれなりにショックを受けたものです。この2年間の留学時には法学部の個室を与えられていましたが、その隣室におられた全盲で行政法専攻のハインリッヒ・ショラー教授も、大学着任前に行政裁判官であったと聞いて、ドイツの法学の実務との近さを思い知らされました。この間に知人となった公法専攻の何人もの教授がとりわけ高等行政裁判所の裁判官を非常勤でされていることも刺激になりました。もっともミュンヘン大学の公法スタッフは多いのに誰もバイエルン高等(上級)行政裁判所の裁判官をしていないので、その理由を同裁判所シュミット長官に聞いたら、ミュンヘン大の教授たちは「(保守)色が付きすぎている」という答えだったので、これまた納得しました。当時は、バイエルン州政府や連邦政府などの顧問や大臣など政治活動をしている先生が多かったので、裁判所の見方ではそうなのか、と思った次第です。ちなみに、1986年に会ったバイエルン州上級行政裁判所の裁判長裁判官であったヒーン(Hien)氏(拙著『人間の尊厳と司法権』77頁、378頁)は、最初の会談の3ヵ月後にベルリンで会ったときは連邦行政裁判所判事になられていました。現在、ドイツ連邦行政裁判所の長官です。バイエルン州の地方自治法のコンメンタールの執筆者でもありました。現職裁判官が地方自治法の注釈書を書いているのですから、日本人である私は、当時驚いたものです。

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2005.03.02

弁No.1 新しいカテゴリー“Libra の弁護士日記”を始めます

弁No.1 これから不定期に“Libra の弁護士日記”を書き込みます。弁護士登録を考え始めた契機や、その他残しておきたい重要事項についての書き込みは残しますが、日常の感想などは1週間を目途にして削除していきます。このカテゴリーの名称を「モルモット弁護士日記」にしようと思ったのですが、「モルモット」は医療被害者などをイメージするという意見もあるので、やむをえず別の名称としました。Libra は、「天秤座」あるいは「天秤座の人」の意であり、弁護士バッジにもデザインされている正義の象徴です。自分の星座でもあるので、まぁ、とりあえず、これでスタートします。No.2 は、弁護士登録を必要と考えたいくつかのきっかけについて書きましょう。

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