弁No.54 2006年1月28日付の朝日新聞に自公議員から「議員バッジ」廃止論が出ているという記事が載っていました。「国会議員でバッジをつけているのは日本と韓国ぐらい。アジア的後進性の象徴とさえ言える」という議員自身の声だという。市町村議員も含めて、議員バッジは組紐(正式には何というのですか?)で落ちないようにしてありますね。
小泉首相は、2005年6月8日に国会議員バッジを着けないまま参院本会議に臨み、秘書官らが気付いて衆院事務局まで走って予備の国会議員バッジを調達して首相に届ける一幕があったということです。顔パスではダメなのでしょうか? ニセのバッジでも形状が同じなら通過できるのでしょうか? 国会議員には身分証明書はないのでしょうか?
バッジ一つでも「国家論」になるほど、語るべき問題はあまりに多いです。
市町村から国まで、議員も日常はバッジを付けることが少なくなったような気がします。かくいう私も中学校卒業以来、バッジを持ったことはないように思いますが、一昨年の7月からバッジを持つことになりました。実際には、国選弁護事件の法廷と、警察や拘置所に入るとき、そして、市役所や公的機関での法律相談、さらには、家宅捜索の立会い時以外には付けたことはありません。従って、バッジそのものは今でも空気を浴びていないので金ピカのままです。
そもそも、日本の司法改革が、最終的に成功すれば、弁護士もバッジを付けなくなるときであろう、と書いたことあります。特に若い頃は、通勤電車の中で、バッジを付けている弁護士を見ると、何となく特権意識丸出しに見えてとても嫌な印象をもったものです。したがって、自分としてはあまり付けたくはありません。行政法の講義をしたこの後期に、1回もそうしたものを「開示」しなかったので、出席カードには、一度近くで見てみたいというのがありました。さて、バッジ問題は、まだ、いろいろ論点があります。裁判官・裁判所職員のバッジのことも、検察官のバッジも。
ただ、最近、列車や地下鉄の中で、会社員や団体職員らが、結構大きなバッジを付けることが多くなったような気がします。一時期より組織への忠誠、あるいは帰属意識を求められる風潮によるものでしょうか。あるいは、バッジや首からぶら下げる身分証で、悪いことをしないように、とか、情報公開機能を持っているのでしょうか? それとも、そもそも、これは私だけの感想なのでしょうか?